金ヶ崎城跡には様々な時代の逸話が残されています︒源平合戦の折︑平通盛が北陸で勢力を持つ木曾義仲に対抗するため城を築いたのが最初といわれています︒南北朝時代には︑足利尊氏から逃れた新田義貞が後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王とともに籠城し︑戦いを繰り広げました︒中腹の金崎宮には両親王が祀られています︒金ヶ崎城に入ったものの︑ここも足利軍の攻めるところとなり︑兵がいったん引いた際に敦賀湾に管絃の船を浮かべたという話が伝わっており︑今も毎年10月開催され︑当時の雅な風情を味わうことができます︒戦国時代には︑織田信長が越前朝倉攻めの際に同盟関係にあった浅井長政の裏切りを察知すると即座に退却を決断した﹁金ヶ崎の退き口﹂の逸話があります︒金ヶ崎城の本丸と考えられている場所は﹁月見御殿﹂と呼ばれており︑ここから敦賀湾を一望できます︒金ヶ崎城跡金ヶ崎古戦場跡金ヶ崎古戦場跡南北朝時代の優雅な船遊びを再現した金崎宮の神事「御船遊管絃祭(おふなあそびかんげんさい)」南北朝時代の優雅な船遊びを再現した金崎宮の神事「御船遊管絃祭(おふなあそびかんげんさい)」20月見御殿から眺める敦賀湾月見御殿から眺める敦賀湾20日には︑優雅な船遊びを再現した御船遊管絃祭が
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