今回お話を伺ったのは……
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- 氣比神宮 宮司 桑原宏明さん
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- 國學院神道学専攻科修了。2019年より宮司として氣比神宮に奉職。
越前国一宮・北陸道総鎮守にふさわしい大鳥居がお出迎え
氣比神宮が創建された702年当時は、まだ今の日本列島の全体がわかっていたわけではありません。北の方角は未知のことが多かった。敦賀は北陸道(北陸地方)に行くための道の口であり、北の守護神ということだったと思います。(桑原宮司)
大鳥居の前に山車が並ぶ、氣比の長祭(けいさんまつり)
福井県人であれば、鳥居の写真を見ただけで氣比神宮とわかるくらい、市民から愛されています。(桑原宮司)
かつては山車が50基以上あり、京都の祇園祭りにも負けてはいなかったでしょう。残念なことに昭和20年の敦賀空襲で焼け、3基だけ残りました。今は新しい3基を加えて6基で祭りを盛り上げています。境内や神宮前の商店街にはたくさんの露天商が並び、大賑わいですよ。(桑原宮司)
神セブン集結の地でパワーをいただく
一つの本社に格の高い天皇の名がたくさん連なる神社は、あまりありません。文武天皇の勅命によって合祀されたものですが、それだけこの地が天皇家とのゆかりが深く、重要視されていたのだと思います。(桑原宮司)
海の安全と豊かな食を願う主祭神
また伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、海の安全を守る神様でもあります。氣比神宮は港が近いことから、昔から航海の安全や大漁を祈願してきました。
その昔、大陸への航海は文字通り命がけで、皆祈りを捧げてから船に乗り込みました。ここを出発地とした遣唐使船もありましたし、逆に大陸からも人々はやってきます。渤海国※2からの使者「渤海使(ぼっかいし)」は、さまざまな文化文物を日本にもたらしました。
氣比神宮の宮司は「松原客館」という迎賓施設を管理しており、渤海使を迎え入れていました。(桑原宮司)
「けひのみや」を愛した勝機の神様・仲哀天皇と神功皇后
仲哀天皇の九州征伐、神功皇后の三韓征伐は、敦賀の港から出航したといわれています。お二人のお子さんである応神天皇も、母・神功皇后とともに20年かけた内戦を勝ち抜きました。応神天皇は即位が叶う前、氣比の地を訪れ大神の前で禊(みそぎ)をし、大神と名前を交換する儀礼を行っています。(桑原宮司)
スポーツの試合を前に御祈願にいらっしゃる方が多いです。そういう方には「勝守(かちまもり)」がいいでしょう。(桑原宮司)
見逃せないパワースポット3選
※1 927年にまとめられた延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に名前のある歴史ある神社。
2000年前からの聖地「土公さん」
主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)が、今から2000年ほど前、ここから見える天筒山(てづつやま)に降り立ったといわれています。山の上ではお参りが困難なので、平地の大木を神籬(ひもろぎ;よりしろ※3)として神様をお迎えし、そこを聖地となし祈りを捧げました。それが「土公さん」です。
今は隣の小学校の校庭内ですが、ここも元は氣比神宮の敷地でした。天筒山を背景にした土公さんをお参りできるよう、境内に鳥居と遥拝所(ようはいじょ;遠く離れた所から神仏を拝むために設けられた場所)があります。(桑原宮司)
1300年枯れていない「長命水」でお清め
702年の神社造営のときにお水が出てきたといいます。今も水源は枯れておらず、水が出続けているんですよ。いつから、なぜ「長命水」と呼ばれるようになったかは定かではありませんが、祭神である武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)が長寿であったことにも関係があるかもしれませんね。(桑原宮司)
「敦賀」の地名の由来?「角鹿(ツヌガ)神社」
都怒我阿羅斯等命は、朝鮮半島にあった任那国の王子として日本に上陸。その後、氣比神宮の司祭と越前国の政治を任され、角鹿神社は政所(まんどころ;政務館)跡に建てられたと伝えられています。
※1 927年にまとめられた延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に名前のある歴史ある神社。
祈りの蓄積の地で明日への希望を
氣比神宮
住所 | 福井県敦賀市曙町11−68 |
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交通アクセス | JR北陸本線「敦賀駅」下車
徒歩約15分、または駅前よりバスにて約5分
※「コミュニティバス」「ぐるっと敦賀周遊バス」のいずれかをご利用の上、氣比神宮前停留所で下車
北陸自動車道 敦賀ICから車で約10分
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駐車場 | 有(無料) |
開・閉門時間 | 【4月〜9月】午前5時~午後5時
【10月〜3月】午前6時~午後5時
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電話番号 | 0770−22−0794 |
URL | https://kehijingu.jp/ |